1999/03/20  一流一派の奨め                                             前ページに戻る


                                                          
武道を習得するには初めはズブの素人から始めるわけだから既存の道場に
通うことになる。既存の道場はおおむね何とか流とか何とか派といった全国チ
ェーンの武道組織に属しているのが普通だからその流派の武道を学ぶことに
なるわけだ。そこで武道の基礎を学び、意欲のある人はさらに流派を渡り歩い
て様々な技術を習得していくことになる。こうして少なくとも10年以上、武道修行
に精進を重ねれば、武道の一応の基礎が身につき技術体系が把握できるよう
になる。多くの人はここら辺りでその属する武道組織の中堅クラスとなり、組織で
ある程度のステータスが得られるようになる。そこで多くは愚かにも自分は一応の
道は極め尽くしたという錯覚に陥り、自己満足して精進を怠るようになるのである。

本当はこの武道の基礎が身につき技術体系が把握できるようなった時点が実は
武道の出発点なのである。実際はそこから本当の武道の修行が始まるのである。
そこから先に進んで武道を極めようとするならば、武道はまさに各個々人の数だ
け流派が生まれるといっても過言ではない個別的かつ個性的な職人技術(芸術)
の世界に入ることとなるのである。そこには既存の流派の権威など微塵も入り込
む余地のない自己研鑚の世界なのである。

世の中には何とか流何段とかを人前で得意げに吹聴して恥じない軽率な人間が
多い。武道の修行をした経験がありながら、下心をもって組織の権威や勢力を
利用し、それにあやかろうとするのである。武道修行は個人の自己修養が目的で
ある。それを武道組織の名をかたって自己のハク付けに利用するなどもっての外
である。まして人を恫喝することを目的に武道組織の名をかたる行為は暴力団員
が金バッチを見せつけて人を脅すのと何らかわりがない。しかし残念ながら多くの
武道組織の中堅クラスでこのような振る舞いに及ぶ人間は多いのである。それは
先に述べた一応の道は極め尽くしたという傲慢な精神が犯すあやまちなのである。

武道を修行するものは、武道の一応の基礎が身につき技術体系が把握できるよう
になったならば、そこからは武道組織とは無縁の自己流の世界が始まるものと自覚
しなくてはならない。それ以降の修行はまさにその個人が一流一派を極めていく道程
となるのである。たとえば修行者が白石隆であるならば「白石流」の技術と奥義を極め
る研鑚の道がそこから始まるのである。こころある武道修行者は自己研鑚の行きつく
所として独自の一流一派を極める志をもたなければならないのである。