1999/02/10 指導することの落とし穴
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かつて大山倍達館長が「私は武道家ではなく経営者になってしまった。」とこぼして
おられるのを耳にしたことがある。その意味は生涯を通じて一人の武道家として空手
の修行に励むことを人生の目的としていながら、組織の長となったため、道場経営に
忙殺され武道家としての空手の修行ができなくなったことを嘆いておられたわけである。
優秀な武道家であっても、自分の武道組織を持てば組織の責任者として武道以外の
さまざまな雑事に時間をとられ、本人の自由な修行の時間などもてるはずがない。
本人が組織の発展を願って努力するばするほど、逆に修行者としての道から遠ざかる
自己矛盾に陥ってしまうのである。組織運営をするということは組織の経営者になること
であり、道を極める一介の武道家の生き方とは根本的に異なるからである。
こういった問題は組織の頂点にいる経営者だけでなく、道場で武道の指導にあたる
指導員にも同様にあてはまる。他人を指導をすることは自分の修行時間を失うことであり
技量の劣化を意味しているのである。他人を指導する能力が高まれば高まるほど本人
の技量は衰えていくという自己矛盾に陥るのである。また指導することは技量だけでなく
精神をもスポイルするものだ。人間は他人を指導する過程では他人に厳しくなること以上
に自分に厳しくなることはできないのである。そこに一種のやましさがうまれ、精神的な遅れ
をとるようになる。武道を志すものは他人を指導することにこの危険な落とし穴があることを
忘れてはならない。
スポーツ選手の場合であれば一定の年齢に達すると体力が衰えてくるため、現役を退いて
指導に回ることは仕方のないことであろう。スポーツという明確なルールのある競技では
体力が衰えれば現役としての活躍には無理が生じるからである。そうなれば指導に回って、
豊富な経験をいかして優秀な後輩を育てていけばそれでよいのである。指導に特化する
ことで指導の才能をのばし斯界の発展に大いに貢献することも可能なのだから。
最近は武道もスポーツ化して指導のプロもいるようだが、これは食べていくための職業
であって武道に精進することとは直接関係はない。武道の指導者イコール武道家とは言い
難いのである。武道には指導専門はありえなし、引退もない。生涯現役があるのみである。
武道を志すとは道を極めるということである。それは齢を重ね老いさらばえてもその道に
精進することに意味があるのである。武道に精進するとは常に何事があっても士(し)として
処することのできる覚悟を磨くことである。そして士(し)として処する覚悟とは信ずることに
命を捨てて事にあたる気概をもつことである。武道の本質はこの気概を磨くことにあるので
あって現世的な栄達や勝ち負けとはまったく関係がないのである。